富ヶ谷親和会の歴史

富ヶ谷親和会は代々木富谷の東富谷町会(現富ヶ谷町会の前身)にできた陸です。

関東大震災後人口が増え、特に大工や鳶などの職人が多く住み着いたことからお祭りが盛んに行われるようになりました。

神酒所前での記念写真(昭和初期)

現在の富ヶ谷1-31あたりは鞍掛の松(別名・一本松)の伝承地とされています。江戸時代の地誌『江戸砂子』によれば、源頼朝が奥州征伐の際に、この木に鞍をかけて休んだとされる名木で、昭和初期までは残っていましたが、山手通りの拡張工事の際に切り倒されてしまいました。

鞍掛の松があった道は鎌倉道(旧道)のひとつで現在の白寿ホールの辺りには井上馬場(俳優で歌手の井上順さんのお祖父様が経営)があり、その道は練兵場の軍人さんが行進する道でもありました。

昭和20年、終戦直後の苦境の中、戦争で焼けてしまったお神輿の代わりに睦の職人たちが樽神輿を作り皆でお祭りをやったそうです。

新たにお神輿を作ることになったのは昭和27年でした。広く寄附を募り、この辺りで最も格式高かった料亭・初波奈の女将さんが太鼓を寄附して下さいました。

当時は、代々木八幡の駅前で深町神園会と一緒にお祭りをやっており、東富谷には代々木深町が練兵場になった際に強制移転させられた住民もいて、お神輿を作る際には、東富谷と深町の住民双方が協力し合いました。長年、東富谷で燃料屋(炭屋)を営んでいた安藤家は、深町から移転してきた住民の一つで、元々の深町の家は現在、代々木公園内の日本航空発始之地記念碑がある付近で、庭木だった梅の木が今も残っているそうです。

昭和30年代は、祭礼となると店先や各戸の軒先に提灯を飾りました。これは鳶の仕事で、夜になると明かりが灯されました。子ども達のために睦に属する職人たちが酒樽で神輿を作り、後に大人神輿を子供神輿にし、大人神輿を新たに作りました。

 参考資料 代々木八幡宮八百拾年祭記念誌「よよぎ」

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